とりねこ日記

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コロナ自粛でメタボ体型になるだけでなく、インプットバカは情報メタボになるリスクもあるんだよ

メタボの男性



新型コロナウィルスの感染拡大にともない、外出自粛要請そして緊急事態宣言の発令と外に出る機会がめっきり減った。

 

「人との接触は7割では効果薄だ、8割減らそう」と言われても7割と8割の違いが分からずもう困惑するしかないわけだが、「とりあえず極力外出しなければオッケーでしょ」とあまり深く考えなくても良さそうではある。

 

当然ながら、家にいてワイドショーやニュース番組でコロナ情報を見ているとどうしても不安が募ってくる。

 

いつコロナは終息するのか?

●というか終息する時なんてやって来るのか?

緊急事態宣言が解除されても仕事あるのか?

●ポストコロナはどんな時代になってるんだ?

そもそもオレがコロナにかからない保証なんて1ミリもないじゃないか!

 

などなどネガティブマインドのオンパレードだ。

 

とはいえ、常にネガティブマインドに侵されているわけでもなく、リモートワークをしてエネルギーを消費するとどうしたって腹は減る。腹が減れば食べ物を食べるわけで、ずっと家にいると誰の目も気にせず、食べる機会が必然的に増えてくる。だって好きな食べ物が手の届く範囲にあるんだから。

「コロナ自粛でメタボになるのは仕方ない」と自分自身を篭絡してみるものの

ジャンクフードを持つ人たち

手に届く範囲にあるのはおもにお菓子である。なんつってもジャンクフードは安い。添加物てんこもりなほど美味く感じるのは分かるが、なるべく原材料を見て体の悪そうなものを優先的に排除して買うようにしている。まあジャンクはジャンクなんですけどね。

 

僕はWebライターをしているので、パソコンをガシャガシャタイピングしながらスーパーマーケットで買ってきたお菓子を食べることが多い。

 

あるいはテレビを見ながら食べ、読書しながら食べ、YouTubeをヘビーザッピングしながら食べる。その結果、今では確実に内臓脂肪が蓄積されてメタボっぽい体型になってしまった

 

そんなだらしない体型にレベルダウンしてしまった自分自身を見ながら、

 

「お菓子に罪はない。悪いのは自分自身なんだ。というか、そもそも一番罪深いのはコロナ自粛だろ!」

 

と、なにもかも責任転嫁して自分自身を篭絡するのをこの頃の趣味にしてしまっているのは、やっぱりどう考えてもマズイなと思うのである。

 

かといって、筋トレや運動はする気になれない。要は習慣の問題だと思うのだが、差し迫った問題に直面しない限りやる気も起きない。とりあえずは、お菓子を食べる機会を減らすしか方法はないのかもしれない。

インプットバカは情報メタボになるリスクもあるんだよ

新聞を読むうさぎ

ところでメタボといえば、体に蓄積する内臓脂肪が原因のおデブさんのことを指す。ご承知のように栄養過多が原因だが、インプット情報が多すぎると情報メタボになるリスクもあることを知っておかなければならない。

 

またコロナの話に戻るが、テレビにしてもネットニュースにしても、コロナに関する有象無象の情報がほぼ無限に出てくる。

 

僕もそうだが、誰もが「恐怖」と「好奇心」という両刀を手にして、繁茂しまくった情報の森に分け入り、目に触れた枝やら手をかすめた草やらをやたらとバッグに詰め込もうとする傾向がある。

 

こういうインプットバカはもれなく情報メタボになって、何が真実か何が嘘か、何が噂レベルなのかを区別できなくなってしまうのだ。

 

もちろん、インプットすべきは真実のみで、一見真実っぽいフェイクニュースをかぎ分ける嗅覚がなにより必要なのは言うまでもない。

こまめな情報デトックスが大切だ

でもどうしても、脂肪の塊だけでできたフェイクニュースを手にしてしまうこともある。

 

例えば、4月1日にロックダウン(都市封鎖)されるとか、中国がトイレットペーパーと同じ材料でマスクを作っているからトイレットペーパーが不足するなんかがそうだ。

 

後者の情報のせいで、しばらくの間スーパーマーケットから品薄状態がしばらく続いていたから困った人も多いはずだ(実家に行って1パック譲ってもらったくらいだ…)。

 

フェイクニュースを見抜く嗅覚を持ち、情報がインプット過多になってしまったらこまめに情報デトックスしておかないと、クリアな現実が見えなくなってしまう。

 

何より現実は、経験と正確な情報がないと上手に歩いていけないんだから。

アウトプットで得られる5つのメリット

水道



情報リテラシーを磨いてフェイクニュースを見抜き、無用な情報、きな臭い情報を定期的にデトックスしたとしても、ちょっとずつインプットされた情報は増えていく。

 

そこで心がけたいのがアウトプットだ。

 

■アウトプットにはこんなメリットがある■

  1. 情報が整理される
  2. 記憶に定着しやすくなる
  3. 有用情報の嗅覚が鋭くなる
  4. 伝達能力が爆伸びする
  5. 行動につながりやすくなる

 

何よりすぐに効果があるのが、1の情報が整理されるという点。いくら有用な情報をインプットできていても、それを活用しなければ意味がない。そんなもんは冷蔵庫の奥にしまい忘れた高級バターみたいなもんだ。使う機会がなかなかない、なんて言ってはいけない。使う機会を待ってはいけない。使う機会は自分で作るもんだからだ。

買ったバターは使わなければ意味がない

使う機会を作れば、最後まで有効にバターを活用できるようになる。買ったバターは使わなければ意味がないし、いずれ味が落ちてゴミ箱に捨てられるだけなのである。情報だってアウトプットして使ってあげなければ、ただのクズでしかない。

 

そんな絶望感漂うクズ情報に落ちぶれる前に、ぜひアウトプットして蘇らせたい。他の情報との関連性が見えて、バラバラだったパズルのピースがつながり、きっと意味のある絵になるはずだ

 

体に蓄積した栄養分も運動することで筋肉になる。情報も同じことだ。知識が筋肉になって、人生という航海の途中に荒れた海の真ん中で停滞しても、グッと踏ん張れるようになるかもしれない。

 

まあ踏ん張れずに倒れてしまったら、もともとそこまでの人生なのかもしれない。やることやったし、とすぐに諦めがつくんじゃないだろか。

村上春樹の「村上RADIO」が教えてくれた上半身と下半身のバランスの重要性と、すき焼きみたいにブラボーな人生について

村上春樹

 

YouTube村上春樹さんの「村上RADIO」を聞いていたら、本人がこんなことを言っていた。

 

下半身が安定しないと書けないんですよ文章って。下半身がしっかりすると上半身が柔らかくなるんです。そうすると文章がうまく書けるようになるんですね。 

 

これを聞いた私はすぐに、

 

文章は下半身で書くものなのか

 

という結論に導かれて、なんだか妙に納得してしまった。村上さんの言葉を自分なりに解釈しアレンジして、勝手に道筋をつけて導いた独断まみれの結論なのだが、新しい事実に世界で初めて光を当てた気分になって気に入ってしまったのである。まあ自己満足もはなはだしいですね。

 

村上春樹さんはもう35年間、毎年フルマラソンを走っているほどのマラソンオタクで『走ることについて語るときに僕の語ること』という一見謎解きのようなタイトルのマラソンに関するエッセーも出している。

 

しかもコンスタントに小説を出してもいる小説家なので、「下半身が安定しないと文章は書けない」という言葉にはかなり説得力があるなぁと感じるのである。

下半身の安定が上半身の安定につながりバランスが良くなる

下半身の安定が上半身の安定につながるという論理は、肌感覚で分かる気がする。安定は柔軟性を生み出し体幹も鍛えられる。そうすれば床や椅子に座っていてもすぐに疲れることもないし、集中力も持続するのだろう。

 

あと体幹が鍛えられれば血流も良くなって、脳も活性化してくる。脳の活性化は文章を書くうえでもかなり力を発揮する。ひらめき、アイディア、パワーワードやパワーフレーズの生産、明快な論理、言葉と言葉のつながりの的確さなんかにも有効なはずだ。

バランスをとる人

 村上春樹さんの小説家としての無双状態がしばらく続いていたのも、この「上半身と下半身の安定やバランス」が一端を担っていたのかもしれない。でもノーベル文学賞の候補になってもなかなか受賞できないのは、その安定やバランスがまだ不足しているということなんだろうか(きっと違うと思うが)。

 

陸上選手に限らず、アスリート全般を見ても下半身だけ筋肉ガチガチに武装して、上半身は脂肪をぶら下げている人なんてのはいない。長い時間走り続けたり、不意の展開になってもうまく切り返して柔軟に対処できるようになるには、上半身と下半身のバランスがとても重要なのである。

 

メッシが足を出されても体当たりされても、ボールをコントロールしながらなかなか倒れないのも、この上半身と下半身のバランス感覚が絶望的すぎるくらいに優れているからだ。

 

そうしてスポーツに限らず、人生という長い道のりを走り続けるにもやはりバランスが肝なのは言うまでもない。

肉体としてのバランスと人間としてのバランスの相互関係

普通にマラソンを早く走るには肉体のバランスは必要だけど、人間性としてのバランスは不要だ。どんなにサイコパスシリアルキラーで嘘つきで親不孝で裏切り者なサノバビッチ野郎でも、誰よりも早くマラソンを走ることはできる。

 

でも人生というロング&ワインディングロードを走り続けるには、肉体のバランスと同時に人間性としてのバランスがとても重要である。まあ当たり前ですね。

 

ここで「じゃあ肉体のバランスと人間性のバランス、どっちが大事なんだ」という野暮でナンセンスな疑問が一瞬ふっと思い浮かんでしまうが、もちろん優劣をつけることはできない。

自転車

 「肉体のバランス」と「人間性のバランス」という両輪が、呼吸を合わせて回転することで初めて完璧なバランスが生まれてくるものだからだ。

 

だけど実際の話、肉体が鍛えられれば精神も鍛えられるという人もいるのだが、僕はあまり明確な根拠はないと思っている。

 

スポーツ選手でも素晴らしい人間性を持っているケースはある。鋼の肉体を持っていても、メンタルは豆腐並みの選手だっている。誘惑に負けて負けて負け続けて、ついに犯罪者になってしまう有名スポーツ選手もいる。

 

結局は肉体もメンタルも、意識して鍛えなければなかなか強化されないものと思っていいかもしれない。

鍛錬してすぐに効果が出やすいのもメンタルだし、出にくいのもメンタル

肉体の鍛錬は即効性はないけど、時間をかければ着実に成果が出てくるものだ。

 

一方でメンタルや人間性の場合、鍛えようと思えばすぐに成果が出やすい場合がある。でも、いくら自己啓発書なんか読んだりして鋼のメンタルを手に入れたと思っても、ちょっと気を緩めるとメッキが剥がれて「あぁやっぱりなんも変わってねえわ」と激しく落ち込む羽目になることもある。

 

つまりすぐに変わる部分と変われない部分があるわけだ。きっとその人がもともと持っている人間的性質に大きく左右されるんじゃないだろうか??悲しいけど、遺伝的要因というのはなかなかあらがえない。

 

根っこがクズ質のものであれば、強制外科手術的に取り除くしか方法はないし、他の部分で補うしかないのである。

すき焼きみたいにバランスよく生きて充実した人生を送る

すき焼き

 突出した才能があれば、多少バランスを欠いてもなんとか生きていけるものだ。でも僕もそうだが、たいていの人は平凡な能力をなんとか最大限に発揮して細々と生きていくしかない。

 

そのためには、この記事でも何度も言っていることだが、バランスが何より重要だと思っている。

 

下半身を安定させて上半身とのバランスをはかり、同時に人間性とメンタルを時間をかけて理想形へと変化させる。

 

その結果として、柔らかい牛肉に甘辛い割り下、そしてマイルドな卵が最高の美味さを引き出しているすき焼きみたいに、バランスよく生きていければ文句なしにブラボーじゃないですか。

 

YouTubeで村上RADIOを聞いている限り、村上春樹さんは人間性やメンタルもそれなりに鍛えられていてバランスが良いように思える。低音のバリトンボイスとか朴訥としたしゃべり方が、その印象を強めているのかもしれないけど、肉体と精神のバランスが取れているように感じるのである。

 

だから長い間、人気小説家としての不動の地位をずっと守っているのだと思える。まあ本人は守っているつもりなんて1ミリもないかもしれないけど。

コロナ禍でもマスクをしないスーパーエキセントリックな人は、最も危険察知能力の高いスペシャルな人なのかもしれない

マスクを付けている女性

コロナ禍でマスク需要が暴力的に激上がりしているせいで、各所でマスク不足が深刻化しているらしい。特に医療現場でのマスク不足が首都圏を中心に顕在化しているようである。

 

ドラッグストアやコンビニに行っても、今でこそ購入機会は増えたものの、少し前までは販売しているのを見かけることはあまりなかった。そのため、家にストックがない人はハンカチや使用しなくなった布切れを利用して、自前でマスクを作ることを推奨されたりしている。

 

外出時にマスクを付けないなど、もはやあり得ない。なんなら「カレーにカレー粉を入れないレベルだぞ!」くらいに思っていたが、こんな危機的状況下でも、世間がどんなに警告を発しても、従わない人がやっぱりいるものだ。

ダイソーで出会ったマスクを付けない親子

先日、日用品を購入しようとダイソーに行ったところ、3人の親子連れが前を歩いていた。30代くらいの主婦と小学生の子供である。外出自粛要請依頼、僕たちの「マスクセンサー」は知らない間に、ビンビンに鋭くなっている

 

親子のイラスト

私はすぐに、その3人の親子がマスクをしていないことに気が付いた。「今のこの状況でやべぇなマジで」と思いさすがに距離を置いたが、少しも動じた様子も見せない堂々とした歩きたっぷりにはもう感心するしかない。

 

買い物を続けながらも、あのスーパーエキセントリックな親子の残像が頭から離れなかった。なぜあの親子はマスクを付けていないのか?その背景をちょっと考えてみた。

 

・まさか私たちが感染するわけがない、という正常性バイアスが働いている

・いつもはマスクを付けているが、たまたま切らしていた

・3密じゃないから大丈夫だという誤った認識を持っている

スマホやテレビを持たない生活を送っていて、そもそもコロナが流行していることすら知らない

・200年後の未来からタイムトラベルして来たばかりだ

 

どの選択肢もありそうだが(最後を除いて)、最初にあげた「正常性バイアスが働いている」が最も有力そうである。

正常性バイアスが異常に働きすぎている説

 とはいえ、外出すればほとんどの人がマスクを付けていたり、身近な芸能人がコロナに感染し犠牲になったりしているのを見聞きしているはずだ。

 

いくら正常性バイアスが働いていても、「さすがにマスクしないとマズイな…」という意識が芽生えるはずである。その意識が心の土壌に芽生えてこないということは、もしかしたら脳が何らかの理由でバグって正常性バイアスが異常に働きすぎているのかもしれない

 

そのため、誰もがこれはさすがにヤベェだろ!という状況にあっても、「自分だけは絶対に大丈夫」だという1㎜も根拠のない自信を持っていられるのではないだろうか。もう無敵モードゴリゴリに全開中って感じだ。

結果的に危険察知能力があり得ないほど高くなっている

でも、脳がバグって正常性バイアスが働きすぎると何らかの影響は出てこないのだろうか?自閉症の人が一部の脳機能の発達が遅れることで、驚異的な記憶力を発揮するような理屈だ。

 

これは1つの仮説に過ぎないけど、生まれつきだか事故の影響で脳機能の一部がバグって、正常性バイアスが異常に働き、さらにその影響で危険察知能力が尋常でないほどにフル回転している。その結果、コロナがどこに存在しているのかが見えるスペシャルな能力を獲得するようになったのではないか。

 

歩く親子と驚く人

見えていればどこを歩けば安全か、どこを歩けば危険かがすぐに分かる。コロナの存在しない安全な場所を歩いている限り、当然マスクを付ける必要性はない。予防という意識も持ち得るはずもない。もう最強という言葉以外、何があるんだ。

 スペシャルな能力を持つ最強親子のあとを歩く人生

コロナに感染して命の危険を最大限まで回避したいなら、もはや最強親子の後ろをずっとついて歩くしかないように思えてくる。コロナが完全に終息するまでしばらくの間、生活を共にして常に親子の後をついて歩く人生を送れば、命を落とす危険性はかなり低くなる

 

マスクを付けて息苦しい思いをすることもない。毎日ワイドショーで、感染者数や死亡者数の推移をみて一喜一憂することもない。手洗いや消毒を過剰なくらいにする必要もなくなる。このご時世で何の心配もなく生活できるなんて最高じゃないか。

 

ただ、親子のご機嫌を損ねないように気を付ければいいだけの話だ。

 

もし電車の中や3密に近い状況下で、マスクも付けず少しも怯えることなく、堂々としている人を見かけたらこう声をかけてコンタクトを取ってみてはいかがだろうか。

 

「あなたにはもしかして、コロナウィルスが見えますか?」と。

「自分らしさ」を求める先の出口なき“デッドゾーン”でもがき苦しむ前に気付いておきたいこと

バナナを持つ男性

最初にまず自己紹介する方がいいのではないかと思いましたが、自分語りが苦手なので省略します。

 

そもそも自分って何者なんだろう?って思うことがたまにある。

 

・引っ込み思案だ

・人前に出るとガッチガチになってしまう...

・それなりに協調性がある

・基本的におおざっぱだ

・だけど「几帳面だね」と言われることがある

・わりと器用なところがある

・どうでもいいことが気になってしょうがない時がある

 ※全部私のことだ

 

こんな感じで、人とは違う「自分」という存在を決定づける要素はたくさんある。気張らず色付けせずにその「ありのままの自分」とか「自分らしさ」を出せたら、生きていくのはけっこう楽だ。

 

見栄を張って「へぇ~とりねこさんてスゴイね!」と羨望の眼差しで見られるのはとても気持ちいいものだけど、時間がたつと「見栄なんか張っておれってバカチンだわ」と自己嫌悪におちいってしまうことがやっぱりある。

 

たぶん同じような経験をしたことのある人はたくさんいるはず。

 

だからみんな「自分らしく生きたい」と熱望したり、「素の自分、ありのままの自分を出して生きていければ…」と願ったりするのだ。

「自分らしさ」って一体なんだ

それじゃあ「自分らしさ」って一体なんなんだろ。冒頭で言った、

 

・引っ込み思案だ

・人前に出るとガッチガチになってしまう...

・それなりに協調性がある

 

なんかは「自分」というものの正体の一部だけど、「自分らしさ」とはちょっと違う。少なくともイコール関係ではない。

 

「自分らしさ」とはつまり、良い面も悪い面もそのままの自分を出せている状態を指すのではないかと思っている。そしてその前提条件として、周りの人たちと相互友好関係を結べていることが必要だ。

 

例えば、

 

仲間内だけで誰にも気をつかわず楽しく話せる自分  ←  ✖引っ込み思案だ

人前に出ないで、目立たず黙々と働いている自分  ←  ✖人前に出るとガッチガチになってしまう

周りの人と協調して仕事を完結させる自分 ←  それなりに協調性がある

 

なんかがそうだ。

 

そして、多くの人がいう「自分らしく生きる」というフレーズの裏側には、

 

無理して頑張らなくていいそのままの自分 × 理想の自分

 

が暗に含まれている。

 

「これが本当のありのままの自分だけど、プラスこんなことまでできたらいいよね~」というちょっとした理想の上乗せがある。そんな自分を受け入れてほしい、認めてほしいという願望が「自分らしさ」「自分らしく生きる」の中にはドクドクと脈を打っているのである。

 

つまり「自分らしさ」というのは承認欲求そのものなのだ

 

「自分らしさ」は巧みに誘惑する結婚詐欺師と同じかも

 

男性を殴る女性

SNSが当たり前の情報発信ツールになってくると、いろんな人がキラキラした自分を発信するのをたくさん目にするようになった。

 

そんなキラキラした人たちを見ていると、

 

私も(オレも)この人みたいに自分らしく生きてキラキラしてええええ!

 

と思うものだが、それはまさに承認欲求そのものだ。人は生きている以上、その欲求からは逃れられない。

 

そうして、たくさんの人が「自分らしく生きられる場所」を求める旅に出ることになる。でも「自分らしく生きられる場所」なんてそうそう見つかるもんじゃない。

 

プライベートな空間の中にはあっても、社会の中で見つけるのはスーパーハードである。それなのに「自分らしさ」という言葉の誘惑に誘われるままずっと探し続けることになる。まるで結婚詐欺師の巧みな言葉にホイホイついていくようなものだ

 

僕は何度も結婚詐欺師に引っかかったことがある(もちろん本来の意味じゃなく)のでわかるが、自分らしさに従って生きていくのが正しいんだと思い込むと、なかなかその妄念を振り払うことができなくなってしまう。

承認欲求を満たすために妥協する偽の「自分らしさ」

 それでは、「自分らしく生きられる場所」が見つからなかったら、人はどうするのだろう??

 

私の場合をいえば、「とりあえずここでいいか…」と腰を据えた場所で、ちょっと妥協して周りに合わせようとする。そうすることで自分らしさを認めてもらおうとするのである。

 

でもある時ふっと気づく。 

叫ぶ男性

あれ?これって本当の自分じゃなくね?

 

そしてまた、ガチガチに固めた「自分らしさ」のサンプルを手に持って、受け取ってくれる場所を求めてさまよい続けることになるのだ。もう泣くしかない。

 

自分らしく生きる、なんていうキラキラした言葉に騙されてはいけない。あなたの近くまでやってきた結婚詐欺師は、髪型、身なり、化粧を完璧にフル装備しキラーフレーズを散りばめていつの間にか懐に潜り込んでくるんだから。

求める先に待っている出口無き“デッドゾーン

自分らしく生きられる場所を求める終わりなき旅はいつまで続くのか。その旅の終着点は出口のない袋小路だ。デッドゾーンである。どこかに出口があるはずだと探せば探すほど、三半規管が麻痺して方向感覚がなくなってくる。

 

運良く出口を探り当てる人もいるだろうし、デッドゾーンに入り込む前に即効見つけてキラキラ人生を歩む人も中にはいる。

 

でもそんな人は一握りだ。敏感な人はデッドゾーンに突入した途端、嗅覚が働いて自分らしさを求める旅を強制終了させて別の道を歩いていくこともある。

 

でも嗅覚の働かない人は、自分らしさを求めては妥協し、また求めては妥協することをずっと繰り返すことになる。終わりなき旅、出口なきデッドゾーンは、自分自身で気づかない限りほとんど永遠のようにつづく。

 

そんなの悲劇以外のなにものでもない。絶望するしかない。それじゃあどうやって出口なきデッドゾーンから抜け出して、終わりなき旅を終わらせて新しいステージに進めばいいのだろう???

自分がどうしたいかではなく、人との関係性の中で何ができるか

飛ぶ女性

答えはそんなに難しいことではない。

 

自分がどうしたいかではなく、周りの人との関係の中で自分は何ができるのか

 

に舵を切って行動することだ。

 

「ありのままの自分でありたい」「こういう自分でいたい」のような自分に向かっていたベクトルを他者、社会に向けるだけでだいぶ楽に生きられるようになる。

 

 重心が完全に自分に偏っていると、上から押すとどうしても「人のことはとりあえず置いといて」という自分勝手な傲慢さがジュワワっと出てきてしまう。

 

中には、「イヤイヤちゃんと周りとの調和も考えてますって」という人もいるだろうが、「自分らしく生きたい」と考えている時点で、重心は圧倒的に自分の方に傾いている。まだまだ、結婚詐欺師の甘い誘惑からエスケープできていないのだ。

 

でも視線が他者に向くようになれば、いつの間にかあなたの「自分らしさ」は認められて、良い面も悪い面もすべて受け入れられるようになるはずだ。

 

 社会生活を営む限り、人との関係性を省略して生きていくことはなかなか難しい。山奥のぽつんと一軒家で暮らすなら誰も文句は言わない。が、あなたが会社や学校に所属している限り、この環境の中で何ができてどうするのがベストなのか、という視点が欠けていればデッドゾーンから抜け出せないかもしれない。

 

まあ今はほぼ誰とも会わないでネットで稼ぐことはできるから、本気度マックスで「自分らしく生きてやるぞオイ!」と意気込んで承認欲求を満たせる人もいるんだろうけど。

 

そうではない限り、周囲との調和を軸に自分のできることを考えたほうが、きっと人生は生きやすくなるはずである。