雨の音は心の炎症を緩和させ痛みをやわらげる最高のアスピリンだ
雨の音がノイズにもならず闖入者にもならず、最高のアスピリンと感じられることがある。ストレスが一瞬だけど消えたような気になるし、イライラした気分も霧状になって蒸発していく。いや、蒸発というか雨がマイナスな感情をことごとく吸い込んでいく感じだ。
だけど時間がたてば、ストレスもイライラもちょっとずつ復元されてくる。まったく厄介な奴らだ。完全に消し去るなんてまぁ無理な話なのかもしれない。形を取り戻してくると、私の中に居場所をササっと見出して、小声で存在意義を主張してくる。そのずる賢さ、素早さといったら地下鉄の線路上を駆け抜けるネズミみたいだ。
ネズミは私の心のストレージを徐々に圧迫して、現実感を蘇らせにかかる。仕事とか家事とか諸々の日常のタスクとか、実務、雑事から解放されることは永遠にない気がしてくる。そういう気分がここ数年の間に、インストールされたみたいだ。これも現代病なんですねきっと。
どんなときも雨の音が心の炎症を緩和させ痛みを和らげるわけではない
それでも、シトシト雨が降っている間は心の炎症を緩和したり、痛みを和らげてくれる効果があるからありがたい。
マンションの一室にいて窓を閉め切っていても、「ワタシはここにいますよ」とさりげなく存在をアピールしてくる。まったく嫌味がないから、なおさら心との親和性が高くなる。
この雨の音の鎮痛効果は「f/1ゆらぎ」に関係してくるらしい。規則性と不規則性の「ゆらぎ」が人間の生体リズムと共鳴して、精神が安定するという。ロウソクの炎なんかもそうらしい。
でもどんな精神状態のときも、アスピリン効果があるわけじゃない。もちろん、ただただ煩わしいだけの音にしか聞こえないときもある。そういうときは激しく存在感をゴリ押ししてきて、不快にさせる作用しかない。ただの迷惑な闖入者でしかない。
雨の音が最高のアスピリンになる人の精神的特徴
会社で働いていた時は、朝から雨が降っていると5割増しで憂鬱な気分になっていた。ただでさえ会社に行くことは、苦役でしかなかった。そんな時は、どんなに優しく雨が降っていても、心の炎症や痛みが和らぐことなんてなかった。
でも今は違う。収入は大幅に激減したけどリモートワーク天国で、ストレスフリーだ。朝から雨が降っていても特に負の感情は生まれない。シトシト降る雨なら、(もう何度も言っているが)アスピリン並みに働くことがある。それにはある条件が必要だ。
条件①なんとなく不安をかかえている
コロナ戦争が開戦されて以来、常にどこかに不安がつきまとっている。ちょっと前には、とんかつ屋の店主がコロナ不況で自殺したニュースもあった。
「将来にいたいする漠然とした不安」を訴えた芥川龍之介みたいに、将来のイメージが描けなくなって持つペンが止まってしまうと、人はどうしても死を身近に感じてしまうのかもしれない。
そんな不安な時にシトシト降る雨の音を聞くと、重い右ストレートをぶち込まれた心も痛みを感じなくなる。まぁ横っ腹は骨折したまんまなんだけど。
条件②「たまには外出しないと」という謎のプレッシャーがかかっている
コロナ自粛でずっと家に籠っていると、「たまには外出しないとダメだなクッソ」っと自分自身に謎のプレッシャーをかけてしまうことがある。
そんなときにシトシト雨の音のを聞くと、そんなプレッシャーも一時的に消失する。雨だから外出は控えたほうがいいだろう、ともっともらしい言い訳が出来上がるからだ。
プレッシャーもストレスも洗い流してくれるから、メンタルヘルスが健全化。リラックス&集中モードがロックオンされるから、作業も読書もはかどる。マジ最高というしかない。
条件③いろんなタスクが累積して疲弊している
1日のタスクが累積していると、疲弊してくる。普段からラフな生活をしているから、計画性なんてほぼないに等しい。ノルマが多いと、それだけ見えざるプレッシャーに精神が圧迫される。
そんな時に聞くシトシト雨の音は、まさにアスピリンだ。「負」の感情がフリーズして、対極にある「正」の感情がムクムクと立ち上がってくる。
立ち上がってくると、また集中してタスクの処理に向かって走り出せる。一度走り出せばモチベーションは持続するし、累積したものが次々と消えていく快感も味わえる。素敵。
晴れていても雨の音を疑似体験する方法がある
晴れていても雨の音を疑似体験できる環境がすでに整っている。これもテクノロジーの恩恵ですね。
なんと雨の音だけが流れる酔狂なウェブサイトがあるのだ。スマホのアプリでも使えるらしい。雨の音にときどき、ビッグサンダーの音もまじっている。けっこう激しい雨だ。でもノイズにならず、知らない間に集中できている。
私のように集中力のない人にはオススメです。作業中はヘビロテして聞いてみてください。
あとYouTubeにも たくさんある。
これは家の中で聞いているような雨音だ。肌の表面を撫でてくるような優しい音に感じられる。ときどき雷の音もまじっている。リリカルな感じ。
そしてこちらは、雨宿りした軒先で聞いているような、ちょっと激しめの音だ。でも心に刺さるような鋭さは感じない。より、重く心にしみてくる。
好みの雨音を見つけて作業中に聞いていれば、マインドは正常値を取り戻して集中力が持続するはずだ。あら素敵。ふぁびらす。
雨の音は悲しみを増幅させる
雨の音をなんとなく調べていたら、たまたま初音ミクの『雨音ノイズ』という歌に出会った。
通り雨が降りそそぐ
傘もささず立ちすくむ僕ら
こんな歌詞で始まる男の失恋ソングだ。
どこかの軒先で雨宿りしている恋人たち。だけどもうその恋がほぼ終わりかけていることを、お互いに悟っている。女性のほうは、完全に終了フラッグを立てている様子がうかがえる。
時間だけが遠ざかる
ノイズのような雨音の中で
そんなときの雨音はノイズでしかないのかもしれない。雨音に限らず、どんな音も慰めにもならないのだ。
軒下で彼女はそばにいて、時間だけが過ぎ去り遠ざかっているように見える。だけど本当は彼女も時間と共に遠ざかっているのだ。男はそれを知っているのに、知らないフリをしているのではないか。
認めたくない、というのが本当の気持ちだ。雨音のノイズが、本当の自分の気持ちを隠している。誤魔化している分、後になって一気に悲しみが押し寄せてくるときが来るはずだ。
雨音は悲しみを増幅させる役割もあることを、初めて知った。
悪魔的に臭いおならを放出したとき平和にその場をスルーするにはどうすればいいか
おならは臭い。どう考えたって臭い。当たり前の話である。臭くないおならなど、あろうはずがない。そんなものは回転しない回転寿司と同じだし、蒸していない茶わん蒸しと同じである。
厳密にいえば、ほぼ無臭に近いおならはある。音は盛大でも「あれ、臭くないぞ」というギャップ型のおならだ。でも私に言わせれば、そういうタイプのおならはただの空気の放出であって、とてもおならとは呼べない。ここで言うおならは、しっかりとニオイ成分を伴った悪意にまみれたガスのことを指す。
そんな悪魔的に臭い、悪意にまみれたガス=おならを自分の家でする分には何の問題もない。ただ自分が我慢すればいいだけだし、窓を開けて換気すればすべてが解決する。
だが問題なのは、会社や学校でおならを放出したときだ。
不特定多数の人がいるときに、堂々と盛大に音を鳴らしておならを放出できるような最強メンタルな人はあまりいないだろう。たいていは誰もいない場所で放出する。誰だって満場一致で、公に屁コキストの称号など与えられたくないからだ。
ぶっこくのであればトイレや非常階段なんかがおすすめだが、音を出すか出さないかは、もちろん周囲の状況による。
気をつけないといけないのはその後である。誰も来ないはずだと高をくくっておならを放出した直後に、人があらわれたとき。
油断した自分がいけないのはわかっているが、「こんな時に来てくれるなバカチンが」と相手を呪いたくなる。冷や汗だって出そうになる。
そしてすぐに、強烈な後悔に襲われる。なんでこんな時にこんな所で、恥ずかしげもなくぶっこいてしまったんだと。いや、バカチンは俺の方だったわ。取り返しがつかないとはこのことだ。
おならは99%の無臭ガスと1%の悪臭ガスで構成されている
そもそも、おならはなぜ臭いのだろうか。おなら成分の99%は無臭なのだが、残り1%は腸で発生した悪臭のガスでできているようだ。
私たちが食事をすると、腸内では善玉菌と悪玉菌が食べ物を消化しようと一生懸命に働く。その消化の段階で発生するのがおならの成分であるガスだ。
善玉菌が発生させるガスは無臭なのだが、悪玉菌が発生させるガスは硫化水素や二酸化硫黄、インドール、スカトールなど悪臭の原因になる成分が含まれているという。
腸内では本来、善玉菌と悪玉菌、日和見菌がバランスよく働いている。そのバランスが崩れると悪玉菌が増え、狂おしいほど臭いガスが大量発生することになるのだ。
悪魔的に臭いおならを放出したとき平和にその場をスルーする方法6選
そんな悪魔的に超臭いおならを、ほぼ100%に近い確率で誰も来ないスポットで出せば何の心配もない。
心配しないといけないのは、「もしかしたら人が来るかもしれない」という五分五分の確率のスポットでぶっこいてしまった時だ。
そんな時に限って会社の同僚や学校の友達が来るものだし、そんな時に限って記念碑的に最上級に臭いおならが出てしまうものである。もう死にたくなるが、その場を平和的にスルーする方法を知っていれば、気まずい雰囲気は圧倒的に少なくなるだろう。
だが、万能ではないので臨機応変に対応することが望まれる。屁コキストのたしなみとして、ぜひ参考にしてもらいたい。
①あくまで気づいていないフリを装う
これが最もオーソドックスな方法だ。顔色ひとつ変えず、あくまで平静を装うことだ。ほんのり臭う程度のおならであれば、たとえ相手が「どうも臭いぞ」と思っても「もしかしたら気のせいかも知れない」と思い直してくれるかも知れない。
だが超絶臭ければ誤魔化しようもない。そんなときは、平静を装いながらちょっと顔をしかめて「なんか臭うな」をいう表情を作るのだ。つまり、
この臭いの発生源は自分はなく、どこか知らない場所から漂ってきたのだとアピールするのである。功を奏るかどうかは相手の気持ち次第だ。あとは祈るしかない。
②誰かが来ることを予想して、あらかじめ天然ガスを吸い込む
自分で発生させた害毒性の高い天然ガス=おならを、自分で責任をもって吸い込む方法だ。これは「地産地消」の考え方に由来する。だが、会社の同僚などが向こうからやって来た時に、慌てて吸い込む素振りをするとかえって怪しまれてしまう。
この方法が有効なのは、まだ周囲に誰もいないときだ。あらかじめ誰かが来るのを予想して、放出直後に思いきり吸い込むといいだろう。
どれだけ吸い込めるかは自分の肺次第だ。吸い込む量が多ければ、おならの存在に気づかれにくくなる。屁コキストの称号が与えられる恐れもグッと減るはずだ。
③さっきまで他の人がいたことをにおわせる
「自分もいまここに来たばかりだ」「さっきこの場所に誰かいたようだ」ということを会話の中でさりげなく挟む方法だ。
誰かの存在をにおわせることで、この濃厚なおならのにおいの発生源が自分だという選択肢を排除できるようになる。相手が疑り深いタイプでも有効だ。そこにいたはずの「誰か」か「自分」かの、二者択一のプレッシャーを与えることができるからだ。
この方法も相手がどう認識するかにかかっている。こちらではコントロールできることではないので、あとは運に任せるしかない。
④息止めゲームを提案して、おならが希釈されるのを待つ
テレビのバラエティー番組で、タレントが水中で何秒間息を止めていられるかというゲームを何度か見たことがある。相手がおならの臭いに気付く前に、そういうタイプの「息止めゲームをしよう」と提案するのだ。
もちろん、相手との関係性が十分構築できていなければできない方法だろう。でも、背に腹は代えられない。相手が不承不承ながら承諾してくれたら、早速ゲームを開始しよう。成人男性であれば、1分ほどは止めていられる。1分もたてば、おならもだいぶ希釈されるはずだ。
さりげなく鼻で空気を吸い込んでおなら濃度を確認し、大丈夫なようであれば自然な形でゲームを終わらせればいい。ちょっと強引な手法なので、個人的にはあまりおすすめはできない。
⑤霊感あるふりをして「ここには近づいていけない」と必死に訴える
向こうから誰かが近づいてきたら、「ここに危険な霊がいるからこれ以上近づいていけない!」と熱意をこめて訴えかけよう。その訴えの効果を発揮させるには、事前に布石を敷いておくことが必要だ。
自分には強い霊感がある。そしてこの会社には(あるいは学校には)浮遊霊が存在する、ということを周囲の人に認知してもらわなければいけない。 そうすれば、たとえ不意に誰かがやって来ても、「近づいてはいけない!」と訴えれば、おならのにおいに気付かれることなく、相手を遠ざけることがきるはずだ。
だが、霊感があることを主張しすぎると気持ち悪がられる可能性が高いので注意したい。よくおならが出てしょうがない、という悩みを持っている人には割と有効だろうが、この方法もあまりおすすめはできない。
⑥素直におならをしたことを認めて、すぐ話題を変える
これが自然にできれば一番良い。だが、いざとなったら不思議とできないものだ。相手が仲の良い人であれば笑って他の話題に移れるだろう。あまり話したことのない相手だった場合、他の人にばらされるリスクが伴う。
そうすれば屁コキストの噂が拡散されてしまうかもしれない。できればそれは避けたいところだ。でも逆に、「正直な人だ」と好感を持たれることもあるかもしれない。そういう意味では諸刃の剣だ。
健康的な生活を送って健全な屁コキストを目指す
私は子供のころ、よくおならをしていた。1日に何回おならをするかカウントしたことがあるが、30回~50回くらいしていた記憶がある。1日平均5回や10回ほどらしいので、重度の屁コキストだったことがわかる。
おっさんになった現在では、だいたい平均位の回数におさまっている。なぜ減ったのかはわからない。その代わり、ニオイの濃度はかなり高くなった。
子供のころのおならは、天使のため息かと思うほどあまり臭くなかったはずだ。だが今では、悪魔のゲップかと勘違いするほどの悪臭を放つことがある。
その悪臭の原因にはいろいろある。
■肉類など動物性タンパク質をたくさん摂りすぎている
■ストレスで腸内細菌のバランスが悪くなっている
■長い間便秘だ
■早食いでよく噛まないため、消化が悪い
おならの悪臭の原因は、腸内の悪玉菌が多く働いているせいである。悪玉菌は動物性タンパク質を分解する性質があるため、あまり多く摂り過ぎない方が好ましい。ストレスだって腸内だけでなく、体全体のバランスを大きく崩す恐れがあるため十分気をつけるべきだろう。
適度な運動やノンストレスな生活、食事の際によく噛むなど基本的なルールを再確認して、健康的な生活を送るように心がけよう。
あまりニオイのきつくない健全な屁コキストになるのも、そう遠い未来ではないはずだ。
自分という「素材」の特性をどう活かして料理するかで、人生は美味くもなるし不味くもなる
スーパーで湖池屋のプライドポテト「芋まるごと 食塩不使用」を買って食べてみた。
ポテトチップスといえばのり塩、うす塩、コンソメなど定番の他にガーリック、サワークリーム、濃厚チーズ、アヒージョなんていうのもある。私たちを飽きさせないようにいろいろと趣向が凝らされている。
でも「食塩不使用」っていうのはあまり見かけたことがないし食べたこともないので、興味本位で買ってみたのだ。
食べてみると、確かに塩辛さはまったく感じない。その代わり、芋の味が舌の上に広がっていくのが感じれる。要するに「素材の特性を最大限に活かした」ポテトチップスということなのかもしれない。
「素材の特性を最大限に活かす」
なんて悪魔的な魅力を持った言葉なんだお前は。
料理は素材の特性を最大限に活かしてこそ美味くなるもの
料理は素材が命とよく言われる。素材を上手に活かしてこそ美味い料理ができるが、そもそも腕がなければどんなに素材が良くても美味い料理は作れるものではない。
素材があまりパッとしなくても、腕があればそれなりの料理は作れるのだが、素材は悪いし腕もないときたら出される料理の出来栄えは推して知るべしである。
つまり、どんな素材を扱おうと、料理人の腕次第で料理の出来が決まってくる。僕の料理の腕はお世辞にも上手いとはいえないが、ときどきビックリするくらい美味いものが出来上がることがあるからなかなか侮れない。うまくできた時は、気分が良くなるし食もハイペースで進む。
「自分」という素材の特性を最大限に活かすことで人生は「美味いもの」になるはず
何度も言うが、料理は素材が重要なのはもちろんだけど、何より腕である。腕の良し悪しで味が決まる。同じ理屈が人の人生にも当てはまるのではないかと思っている。
「自分」という素材をどう活かしどう利用するかで、人生は美味い物にもなるし不味い物にもなる。どうせ食べるなら美味い方がいいに決まってるよね。
僕は中華料理が好きだが、別に最高級食材を使用しなくてもいい。素材の特性を十分に活かして、経験と勘とスキルを存分に発揮した絶望的に美味い八宝菜を食べたい。フランス料理もイタリア料理もいいが、やっぱりトロッとしていつまでも口の中に深い味の残っている中華が何よりも好みだ。
自分の人生も同じだ。高級食材をガチガチに集めて、最高のスキルを120%発揮してキラキラした最高級料理を作るなんて無理な話なのはわかっている。一見チープな素材でも、特性を上手く活かしたトロッと味わいのある美味い料理を作る。それが僕の人生の料理人としての目標である。
欠点だらけの素材でも腕次第で美味い料理は作れる
それではちょっと、とりねこさんの「素材」を見てみよう。
■引っ込み思案 →悪い素材
■人見知り →悪い素材
■人と上手に関係を構築できない →悪い素材
■あがり症 →悪い素材
■相性が良ければ懐く →良い素材
■わりと献身的 →良い素材
■飽きっぽい →悪い素材
■空気を読みすぎるきらいがある →悪い素材
■共感力はそこそこある →良い素材
■人と同じことを嫌う傾向が強め →良い素材
とりあえず、何も考えず片っ端から集めた素材です。悪い素材の方が多いように見える。使いようによっては良い素材に化ける可能性のあるものもあれば、持ってても邪魔でしかないように見える素材もある。
腕が悪ければ当然、ジャンク品にしかなり得ないだろう。だが、上手に料理することで中毒性抜群の、絶品八宝菜にも劣らない、カリスマ的ジャンク料理が出来上がるはずだ。そんな個性的で、また食べたいと思える料理を作れれば最高じゃないか。そのためには毎日腕を磨き、素材の特性を上手に活かす訓練が欠かせない。
悪い素材の活かし方
それでは悪い素材をどうやって活かせばいいのだろうか。表面は苦かったりあくが強くても、切ったり皮を剥くことで甘い果肉があらわれることがある。つまり表面だけを見ないで、いろいろな角度から素材を見極めればいいのだ。
✖ 人見知り → 〇 相性が合えば深く付き合える
✖ 飽きっぽい → 〇 好奇心旺盛でいろんなことにチャレンジできる
✖ 空気を読みすぎるきらいがある → 〇 相手を傷つけないで鷹揚に対処ができる
こんな感じで、一見欠点だらけの素材に見えても、良い一面がある場合がほとんどだ。それを探さないのは損である。最大限に素材を活かすこととは、そういうことじゃないだろうか。
ジャンクならジャンクで最高に中毒性の高いジャンクフォードを目指せ
いくら素材を活かせって言っても、ジャンク素材ばっかりだからどうせジャンクフードにしかならねえわ。
そう嘆きたくなるのもわかる。僕もその一人だからだ。でも、ジャンクならジャンクでいいじゃないか。ジャンクの何が悪いんだ。
どうせなら最高に中毒性の高い、ジャンクの中のジャンクを目指せばいい。ありきたりの、チェーン店で食べるような没個性的な料理なんか目指さなくて結構だ。たまたま入った安い個人店で食べる、ジャンク丸出しだけどなぜか中毒性ハンパない料理を目指せばいいじゃないか。
熱狂的に食べてくれる人が一人でもいれば、確実に面白い人生になるんじゃないだろうか。
戦略的悲観主義者になることで成果を出す方法とは?楽観主義との上手な使い分けできっとハッピーロードを歩けるようになる
例えばの話だが、飲むと「楽観的になるジュース」と「悲観的になるジュース」があったら、あなたはどっちを選びますか?
どちらも人工甘味料なしの100%果汁で作られていて、飲めばたぶん健康に寄与するだろうというおまけつきだ。たぶん多くの人が、というかほとんどの人が「楽観的になるジュース」を選ぶだろう。
僕もそうです。基本的には。
・・・・・
基本的には?
何を意味深なことを言ってんだこのあんぽんたん、と思った方もいるはずだ。そう、基本的には僕も楽観的になれるジュースを飲みたいと思う。
だがつい最近、長い長い人生を歩いていくうえで、「楽観的なことはマイナスに働くこともあるかもしれない」ということに気付かされたのである。
悲観主義なんてピーナツの殻も同然だと思っていた
僕は22歳くらいまで楽観的でも悲観的でもなく、中庸的な立場をとっていた。といえば聞こえはいいが、要するに主義もなにもない、無味乾燥でいつもフラフラしているニュートラルな男だった。
だが自分の無力さを知悉するに至って、悲観主義的な考えの沼にすっかりはまってしまったのである。いま思い出してみるとかなりの抑うつ状態だった。でもある時点でこのままではいけないと思い、楽観思考に切り替え、それ以来なんとか自分を保って生きてこれたと言ってもいい。
楽観的になることで、劣勢で悲観的な状況におかれても完全停止せず、なんとか前を向いて歩き続けるようになれるものである。
そのせいか、つい最近まで完全に、
楽観主義 > 悲観主義
だった。もう楽観主義の完全勝利だ。悲観主義だと?何の役にも立たねぇなクソが!持っているだけ損。このピーナツの殻野郎!である。
だけど、こんな記事をたまたま見つけて読んでみたら(グーグル翻訳に助けてもらって)、悲観主義に対する見方がちょっと変わってしまったのだ。
The benefits of being a pessimist: Expecting the worst can make you focus on the outcome of a goal and perform better, claims scientist
つまり、悲観論者は最悪のシナリオを予想して目標のために集中することで、より良い結果を残すことが出来ると科学的に証明されたというのである。ちょい待ってくれ。マジかよオイ!
防衛的悲観論者、あらわる
記事を要約すると、
■悲観論者の一部には「防衛的悲観論者」と呼ばれる人たちがいる
■彼らは最悪の事態を想定して、戦略的に入念な準備を行う
■その性質を利用して、目標達成のためにより良いパフォーマンスを発揮させる
■良い結果が生まれやすいので、自尊心も楽観主義者と同じくらいに高い
という感じになる。
悲観論者のすべての人たちに当てはまるわけではなく、一部の防衛的悲観論者にスポットを当てているということに注意したい。
ただの悲観論者というのは、言うまでもなく現実をことごとく悲観的にとらえる属性の人たちのことだ。最悪の事態にとらわれて、ただ悲観して落ち込むだけで何もしない。まったく厄介極まりない。
だが、防衛的悲観論者と呼ばれる属性の人たちは、戦略的に悲観論者になることで最高のパフォーマンスを発揮し、最大の成果を生み出そうとする人のことを指す。
つまり、あえて悲観論者になっているというのである。防衛的悲観論者というとちょっとわかりにくいが、戦略的悲観論者といえば少しはピンと来るかもしれない。
どうすれば最高の成果を出す戦略的悲観論者になれるんだろう?
それではどうすれば、最大限のパフォーマンスを発揮して最高の成果が出せる戦略的悲観論者になれるのか?上記のDaily Mailの記事を参考にして考えてみた。
①最悪のシナリオを描き、入念な準備を怠らない
最悪なシナリオを描き、考えうるさまざまな悪要素をつぶしていけばいい。例えば、大事な約束があって絶対に遅れてはいけないという場合。電車のダイヤや最短で行ける乗り換えを調べる、電車遅延があったときのための迂回路を調べておく、駅前のタクシー乗り場を探しておくなどだ。そういった入念な準備をしておけば、イレギュラーなことが起こってもすぐに対処できるようになる。
②慎重に、計画的に実行する
悲観主義的な人は慎重な傾向が強い。慎重に、冷静に目の前の現実を把握することで計画的に実行ができる。もちろん慎重になりすぎてチャンスを逃すことは多い。僕がそうだった。まったく頭が痛い。お腹も痛くなる。だけど、慎重に行動したおかげで危険を回避できた、っていうことも確かにある。
楽観的な人のように大胆不敵に勢いで行動することで、成果が出ることもたくさんあるから、どちらがいいかなんて一概には言えない。まぁ一長一短があるということかもしれないです。
③現実をありのままに見て、楽観視しない
楽観主義の人は現実の一部が楽観できる状況だと、他の部分は無視して「大丈夫大丈夫!」と自己暗示しやすい傾向にある。だが、悲観主義的な人は現実のあらゆる面を多角的に見て評価する傾向が強いように思える。
つまり現実をありのままに見て、すぐに楽観視しないのだ。総合的に判断した上で、さらに慎重を期す。最悪なシナリオを回避する大事なポイントかも知れない。
④ネガティブな出来事にも目をつむらない
戦略的悲観論者はネガティブな現実にも、目をつむらないで直視できる。楽観的な人は都合の悪い現実を「見なかったことにする」ことが多い。そこがほころびになって、失敗の原因になっているように思うのだ。ネガティブな現実も目を背けず観察して、その解決策をなんとか抽出しようとすることできっと、望むような成果が転がってくるはずだ。
⑤自分自身を過大評価しない
自分自身を客観的に評価することほど難しいことはない。それでも自分を鼓舞するつもりで甘めに評価してしまうのは危険だ。過大評価は、現実を楽観視することに繋がりかねないからだ。
個人的には、過大評価するなら若干過小評価するくらいが良いのではないかと思っている。かといって過小評価しすぎるのも良くない。なかなか自信が持てなくなり、現実をありのままに見る目を曇らせてしまうことになるからだ。
⑥いたずらに卑下せず、出した結果に対して正当に評価する
成果を出しても「どうせたまたまだろ」とか「自分なんか何もしてない」といたずらに卑下をせず、「ここまで出来たぜ!」と自分自身を正当に評価してあげることが大事だ。自尊心が高まり自信にもつながる。でもしっかりと帯は締めて精神的土台の基礎がガッチリ固められることで、また次のチャレンジに余裕をもって取り組めるようになる。
これら6つの点はけっこう重要事項なんじゃないかと思っている。戦略的に悲観主義者になることで、確実に成果をものにしていく。楽観的な人をいつの間にか出し抜いて、地球3周分くらい先を行けることだってあるかもしれない。それくらい未来感のあるポテンシャルがあるはずだ。
特に集団のリーダーには必要な資質かもしれない。
戦略的悲観論者(=防衛的悲観論者)とはどんな人たちなのか
ところで、戦略的悲観論者(=防衛的悲観論者)にはどんな人がいるのか?と考えたとき、すぐに思い浮かんだのがイチローだ。とはいっても、イチローが戦略的悲観論者だと断定しているわけではないので注意してください。
毎朝同じものを食べ、試合前は同じルーティーンで入念に準備し、打席に立つとき、守備につくときにも同じ順番、同じ動きで準備して常に最高のパフォーマンスを発揮できるようにする。
もし、これだけの身体能力あるんだから、本気になればいつでも結果出せるぜ!というような楽観主義ならどうだっただろう?きっと、自分に同じルーティーンを厳格に課すこともなく、新庄みたいにもっと楽しそうに野球をプレーしていたかもしれない(イチローが楽しそうに野球をしていなかったというわけではないですが)。
いくらセンスがあり身体能力が抜群だと自己評価していても、「ヒットが打てないかもしれない」「最短距離で捕球できないかもしれない」と最悪の事態を想定することで、練習を欠かさず、野球に関するすべての行動をルーティーン化して入念に準備する。それにより、最悪の事態が起こることを回避しようとしているのだと考えられる。
一流のスポーツ選手はことごとく戦略的悲観論者なのかもしれない
イチローに限った話ではない。サッカー、レスリング、柔道、水泳、バスケ、相撲など、一流と呼ばれるスポーツ選手は基本的に戦略的に悲観論者になることで、練習や試合前の準備を計画的且つ入念に行い、試合に負ける、ちょっとした油断で相手に勝利を譲るという最悪のシナリオを回避しようとしているのではないか。
あともう少しで試合に勝てる、というときにも、相手選手にスキをつかれないように最悪の事態を想定し決して油断をしない。確実に勝つことを義務付けられた選手やチームのキャプテンの多くはこのタイプなのではないかと想像できるのである。
戦略的悲観と戦略的楽観をうまく使い分けられたらハッピーだ
ここまで戦略的悲観論者(=防衛的悲観論者)を持ち上げに持ち上げてきたが、当然ながらどんなシーンでも万能な立場であるはずはない。
場合によっては戦略的悲観主義に立つことで、明るい光がさしていた世界に闇が侵入して暗転してしまうこともある。万能ではない限り、やっぱり「使い時」を見極めることが大事だろう。
その際、戦略的に「楽観主義」の立場を持っておくとけっこう対処しやすくなるのではないかと思っている。
戦略的に「悲観主義」と「楽観主義」を柔軟に使い分けることで、多くの問題を適切に処理できるんじゃないか?と考えられる。物事がうまく運んでいるときには「戦略的悲観論者」になり、物事が最悪の事態にまで行き詰まったときには「戦略的楽観論者」になることで、思うような方向に進んでいけるはずだ。
もちろん、物事がうまく運んでいるときにそのままの勢いで「いてまえええ!」とパワープレーで進んでいくのもありだが、頭の片隅に「いやちょい待てよ」と戦略的に悲観論者の自分を登場させられるようになれば最強だ。うん、それこそハッピーである。
人には考え方のクセのようなものがある。知らない間につい、こういう方向に考えがいってしまう、というような経験がきっとあるはずだ。それで成果が出せていればそのまま自分の道を貫いていけばいいわけだが、「なかなかうまく行かない…」という場合には、戦略的に「悲観主義」と「楽観主義」を使い分けていけばいい。キラキラしたハッピーロードもきっと、夢ではなくなる。
答えのない問題に直面したとき試合放棄せずに答えを見出せるようになる2つの方法
世の中には2種類の問題がある。「答えのある問題」と「答えのない問題」だ。
「答えのある問題」といえば、学校で受ける(あるいは受けさせられる)テストの類である。毎年、大学入試で「実は答えが存在しない問題でした」と泣く泣く公表する大学があるが、学校で出される問題には必ず答えがあるのが原則。
一方「答えのない問題」は、社会で生活していると無数に出てくる。が、答えのない問題も厳密にいうと2種類ある。ガチで答えのない問題と人によって、シーンによって無数の異なる答えがある問題だ。
「自分の心に映っている自分自身の姿を鏡に映し出すにはどうしたらいいのか」みたいなガチで答えのない問題はとりあえずカバンに閉まっておいて、私が取り上げたいのは「人によって、シーンによって無数の異なる答えがある問題」の方だ。
答えのない問題の例
答えのない問題の例をあげてみよう。誰でも一度は頭をかすめたことがあるはずだ。
・人は何のために生きているのか?
・自分とはいったい何者なのか?
・自分がこの世に生まれてきたのは何の意味があったのか?
・人はどうして働かないといけないのか?
などである。いくら考えても明確な答えは出てこない。同じ人でも、置かれている状況や精神状態によって出てくる答えが違う場合もある。あんまり考えすぎると脳筋が肉離れを起こしそうになってくる。「答えはこれだ!」と見つけたつもりになって寝て起きたら、なんでこんな答えを出して満足したのか絶望したくなることだって一度や二度ではない。
だから賢人の書いた本を読んでヒントをを見つけ、答えを探り当てようとする。でも書いてあることなんて人によって大きく違うから、どれを信じていいのかが分からない。どれも採用したくなり、いいトコどりしてアレンジしてみると辻褄が合わなくなったりする。最終的には頭が完全にバグって、試合放棄するしかなくなるわけだ。
答えのない問題に直面したとき試合放棄せずに答えを見出せるようになる2つの方法
それではどうしたら、途中で試合放棄せずに「答えのない問題」からある一定の答えを導き出せるようになるのか。方法は2つある。
①問題に具体性を持たせる
上で記した「答えのない問題」の例は漏れなく抽象度がかなり高い。抽象度が高ければ、人は明白な想像図を思い描くことはできないので、余計に難しく感じるのだ。それならば、自分事として具体性を大さじ3杯くらい入れて抽象性を薄めてあげればかなりとっつきやすい問題になるはずである。
例えば、「人は何のために生きているのか?」という抽象度激高な問題に具体性を持たせるとこんな感じになる。
【具体性なし】
✖「人は何のために生きているのか?」
↓↓↓
【具体性ありに変換】
〇「売れないライターとして働いている俺は、結婚もせず一人で何のために生きているのか?」
このように身近な問題として具体性を持たせることで、答えを導き出しやすくなる。
ちなみに抽象度の高い「人は何のために生きているのか?」という問題に対しては、“自分自身を知るため”、“世界を理解するため”、“子孫を次世代に引き継ぐため”という、これまた抽象度が高すぎて現実感のカケラもない、誰もが考えそうな答えしか出せなかった。
だが、問題を具体的に変換することでずっと身近な答えが出せるようになったことに気づく。
≪問題≫
「売れないライターとして働いている俺は、結婚もせず一人で何のために生きているのか?」
≪答え≫
“書くスキルを磨きながら自分の世界観が伝わる記事を作りつづけ、少しでも生きていることが楽しいと思える時間を過ごすため”
このようにグッと身近で具体的な答えが出せるようになり、頭をひねって考え続けた時間も意味のあるものになってくる。
②問題を違う視点から出してみる
問題に具体性を持たせるのはそれほど難しいことではない。が、違う視点から問題を出すのはけっこう難易度が高い。もうF難度レベルだ。
だが抽象度の高い問題だけに限らず、どんな問題でも行き詰った時に違う視点から物事を見ることは、答え探しにはかなり効き目がある。
そのとき大事なのが、次の2点だ。
・常識やルールに縛られないこと
・思い込みを捨てること
この2つの点を心がけると、問題を違う視点から見れるようになる。視力0.1から1.0くらいクリアに見える場合もよくある(あくまで個人的な感想です)。
例えば、「自分とはいったい何者なのか?」という問題を違う視点で見てみると、こんな感じになる。
✖「自分とはいったい何者なのか?」
↓↓↓
【違う視点に変換】
〇「この会社にとって(またはこの家族にとって)自分が存在する意味はどこにあるのか?」
このように変換することで、問題が問いかけている本質は変わらなくても、視点が変わることで少し答えが出しやすくなったと感じるのではないか。
ちなみに、「自分とはいったい何者なのか?」という問題に対しては、“他者に影響を与え、他者から影響を受けて変化する社会の一つの細胞として絶えず動き続けるもの”、または“世界にとっていなくてもいい存在であると同時に、なくてはならない存在”というややこしく訳のわからない禅問答みたいな答えを出してしまった。
きっといくら考えても、納得できる答えなんて出せそうもない。
だが別視点で問題をとらえなおすと、ずっとわかりやすい答えが出せるようになる。次の通りだ。
≪問題≫
「自分の周りにいる人にとって(または家族にとって)自分が存在する意味はどこにあるのか?」
≪答え≫
“周囲にいる愛する人たちや守らなければならない人たちの幸せのために働き、一緒に喜びを分かち合えるところ”
このように視点を変えるだけでより分かりやすく、具体的な答えが出せるようになる。しかも、①の問題に具体性を持たせると同じように、かなりポジティブで前向きになったのがわかる。
つまり、明確な答えのない抽象度の高い問題に具体性を持たせたり問題の視点を変えてイメージしやすくするだけで、意識がやる気や積極性へとチューニングするようになりポジティブな気持ちに色が変わったのだと思われる。
問題が具現化されるだけでなく、気分も未来志向でハイになるならもはや実践しない手はないだろう。
さて、ここまでは「答えのない問題」を自問自答していただけだったが、次はそれを質問されたらどう答えればいいのかを考えていこう。
子供に答えのない問題を突然尋ねられた時の対処法4選
あなたが学校の先生や子供を持つ親だとしたら、子供に明確な答えを持たない問題について質問される機会は少なくないだろう。僕に子供はいないけれど、姪っ子に何度か超難問を不意に突きつけられたことがあって、うまく答えられないことのほうが多かった(圧倒的に)。
「どうして人は生きなくちゃいけないの?」
「どうして子供は勉強しないといけないの?」
「どうして子供は大人の言うことを聞かないといけないの?」
など、今まで一度も考えたこともないことを質問されるような幸運に巡り合うと、ブルブル震えて冷や汗をかくことは間違いない。そんな時に、カッコいい大人だったらどう対処すべきなのか。カッコいい大人の絶対的キングとして、僕ならこうするというとっておき対処法をお伝えしよう。
対処法1~率直に自分の考えを述べる~
人の顔なのかただの歪んだ図形なのか、海なのか空なのか分からない抽象性の極みのようなボヤっとした質問をされたとしても、すぐに頭をフル回転させて簡潔に答えられたらきっと尊敬されること間違いないだろう。
だが過去に1度くらいは一定時間コミットして考えたことがないと、なかなか難しい。そこはもう運に任せるしかない。
もし運が味方についてくれたら、過去の引き出しを引っ張り出して率直に伝えよう。あまり長く詳細に説明しすぎると子供が飽きてしまうため、ある程度余白を残して伝えたほうがベターだ。
対処法2~「一緒に考えてみよう」と同じ目線に立つ~
過去にフルコミットして考えたことのある問題を、そのまま質問されることはあまりない。
「そんなこと考えたこともねええええ!」と心の中で焦りながら、表情は冷静に保ちつつ「よし、じゃあ一緒に考えてみよう」と促すのがベストだ。
対話していくうちに、だんだん答えの糸口が見つかってくることもあるかもしれない。質問と対話を繰り返すことで、明確な解答が得られなくても子供はある程度納得するものである。
また、同じ目線に立って一緒に考えてみることで精神的にゼロ距離になり、関係性はますます親密になるはずだ。
対処法3~「明日教えてあげよう」と時間的猶予を作って一夜漬けで考える~
率直に意見を述べるほど知的モーターが働かず、同じ目線に立って一緒に考えるほどの余裕もない。そんな時は、忙しいフリをして「明日教えてあげるから待っててほしい」、と自然な形でその場をやり過ごすのがベターだ。
一人になったらネットで調べ、一夜漬けで考えをまとめることに全力を尽くそう。あるいは、信頼できる人に聞いてヒントをもらうのも手だ。
いずれにしても、「その問題を答えるには一定の時間が必要だから、余裕のある時にじっくり教えてあげよう」という雰囲気を伝えたほうが良いだろう。時間的猶予を作っておけば、それなりのモノができ上るはずだ。
対処法4~聞こえないフリをして誤魔化す~
これは最終手段と考えたほうが良い。何故なら、一瞬で信用を喪失するリスクがあるからだ。
何かに集中して聞こえないフリをしてちょっとずつ距離を取ることで、「いま忙しそうだから話しかけないほうが良かったかも」と子供が考えてくれれば最大の成果が得られるはずだ。つまり、知的脆弱性を暴露されず信頼関係も損なわれない。子供に「今じゃなかった」と空気が読める敏感さがあれば、この方法は功を奏すはずである。
だけど聞こえないフリをしてるんじゃないか、ただ誤魔化しているだけじゃないのか、と察知されたらもう終了ブザーが爆音を響かせることになる。知的に脆弱であることを悟られ、今まで築いてきた信頼関係も瓦解して二人の間には大きなクレバスがみるみる口を開けていくのを、それこそ口を開けて眺めているしかない。
もちろん、こんな誤魔化し行為はおすすめしない。望むような成果を得られることはまずないと考えるべきである。たまたま今回成功しても、次回また同じ成果が生まれるとは限らない。むしろ、一度きりにしたほうが身のためである。
「答えのない問題」と真剣に向き合うことで人間性に厚みが生まれるのかもしれない
答えがあらかじめ用意されている問題を一生懸命に解いたところで、知識が蓄積されるだけだ。もちろん知識は思考の材料になるし、生活していくうえで役立つことも多い。
だが、「答えのない問題」に真剣に取り組んだ結果、得られる“大きなプレゼント”に比べたら些末なものというしかない。僕の考える大きなプレゼントとはつまり、
・問題解決能力
・論理的思考力
・マクロの視点で事象を俯瞰する能力
・社会や他者との関係性を再考し深める能力
である。問題の本質を見極めて大所高所から解決策を構築していく。社会の中に、あるいは自分の中に存在する難問はどうしたって、他者との関係が付いてまわる問題であることがほとんどだ。
したがって上記のような能力が身につくことで、人間性に厚みが生まれてくる。薄切りにスライスされたベーコン並みなのか、分厚いブロックベーコンクラスなのかは、真剣にコミットした時間やもともと持っている性質によるんだろうけど。…
僕は答えのない問題に直面したとき、時間をかけて自力で解決しようと取り組んだこともあれば、手も足も出ず早々に試合放棄したこともある。だからこそわかるのだ。たとえ最終的に解決できなくても、自力で解決策をあれこれ導き出そうとすることで「何かを得た」という感触が手の中に残るものである。
だけど、早々に試合放棄してしまうと無力感だけがいつまでも漂うのだ。面倒がらずにしっかりコミットしておけば良かったと、何度後悔したかわからない。
社会には答えのない問題にあふれている。それを避け続けて生きていくのか、直面するたびに人間力をフル稼働させて解決に導こうとするのか。その姿勢如何で、人生の充実度に差が生まれてくるのではないかと感じるのだ。
ヒゲに憧れて伸ばし始めたが、ダンディズムや男らしさが感じられるかどうかは別問題だ / 岡田准一、槇原敬之などから考察してみる
新型コロナで巣ごこり生活を余儀なくされてからというもの、無精ヒゲを伸ばすことが多くなった。
社会生活を営んで以来、ヒゲを伸ばしたまま生活することなんてほとんどなかったタイプである。「外出する際には必ずシェーバーでヒゲを剃るべし」という条文が、日本国憲法に記されているんじゃないかっていうくらい固く遵守していたのだ。
だけど外出する機会がめっきり減った今では、その条文もいつの間にか斜線が引かれて法的効力を失ってしまった。
それ以来、鏡の前で中途半端に伸びた無精ヒゲを撫でたり、清潔感のカケラもないその無精っぷりを確認する日々が続いていた。もういい加減、自分の怠惰さとかゲスいルックスに嫌気がさしたりしていたが、一週間ぐらい伸ばしているとだんだん印象が変わってきた。
今までは自分自身を「ヒゲの似合わない男」のサンプルくらいに思っていたのだけど、「実はわりと似合っているんじゃないか?」と、思い始めてきたのだ。危険な兆候だ。
更に「だったらこの機会にもっとヒゲの似合う男に進化してやろうか」とか「ダンディズムをアピールしてモテたらラッキーだぜ」と色気を出してきたのだから、なんともタチが悪い。見た目でモテようという発想がジュニアハイスクールレベルだし、それがオッサンの脳内に充填されてしまったのだからまったく凶悪的すぎる。
ヒゲに対する好みや印象は男女によってけっこう違いがありそうだ
女性に対して男のヒゲへの印象調査を調べていたら、どのアンケートでも8割くらいの女性が「ヒゲが嫌い」と答えている。好き派と嫌い派にはっきり分かれてるってことはなんとなく理解していたが、ここまで嫌い派が多いとはちょっと予想外である。
嫌いな理由の圧倒的1位が「不潔だから」ということらしい。自分でもおおむね不潔さは感じていたから、清潔感を求める女性にとっては数万倍「生理的に無理」なんだろう。
「ダンディズムとかワイルドさをアピールしてあわよくばモテてやろうか」とちょっと希望を持っていた身としては、返り討ちにあった気分である。残りの2割に刺さればいいだろが!と強がりをいいたいところなのだが、この惰弱な“にわか”ヒゲ野郎は内心尻込みして、早くも自信喪失気味である。もう恥ずかしさで体温が急上昇しそうだ。
でも一方で、男の同性に対するヒゲの印象はおおむね良いのではないか。残念ながらアンケート調査があるのかどうかも分からないが、女性の好き嫌いの割合を入れ替えたらそのままアンケート結果として一致しそうである。まあ世代によって違いはあるかもしれないけれど。
僕はといえば、ヒゲの似合う有名人を見るとちょっと憧れてしまう。20代のころはまったく憧れはなかったが、年齢を重ねてオッサン化していくにつれてヒゲに対する憧憬がふつふつ湧いてくるようになった。特に童顔でずっと貫録少なめで生きてきたから、余計その傾向が強いのかもしれない。
大人の男、ダンディズム、貫禄、人間としての深み、謎めいた危険さ…この期に及んでそういうものを本能的に求めているのだ。人間というのは、自分に持っていないものをとかく求めがちなのである。
ダンディズムを体現したカッコいいヒゲ系有名人8選
ところでヒゲの似合う有名人といえば、山田孝之、岡田准一、阿部寛、竹野内豊、浅野忠信、オダギリジョー、キンコンの西野亮廣、吉田鋼太郎なんかがすぐに思い浮かぶ。
岡田准一はヒゲを伸ばしていない頃はまだひ弱なアイドル感が圧倒的に強かったが、ヒゲを伸ばしてからは貫禄がついて、すっかり俳優然としてきた印象がある。阿部寛や竹野内豊、吉田鋼太郎はもうダンディズムしか感じないし、キンコンの西野は「できる男」的な雰囲気が出ていてちょっとカッコいい。
山田孝之とオダギリジョーは似合っているが、ちょっとヒゲが濃いめだ。個人的にはもう少し薄いほうが好きである。
番外編としては元ひきこもり髭男爵と愛されキャラの具志堅用高をあげておく。憧れの対象としては見れないので、上記の「The ダンディー」というべき人たちと同列にはあげられませんでした。勘弁してくだせぇ。
ダンディズムがあまり感じられないヒゲ系有名人4選
要するにあまりヒゲ似が合ってないと感じる有名人といえば、個人的には森田剛、森山未來、トレエンの斎藤、イチローの4人だ。
共通しているのはみんな童顔であることである。おそらく、自分でも十分自覚しているため、貫禄をつけるためにヒゲを伸ばしているのだと思われる。が、残念ながらあまり似合っていない。
こう見ると、童顔×ヒゲは失敗するリスクがかなり高そうだ。水と油、日本酒とハンバーガー、うどんとチョコレートみたいなものである。
似合うかどうか以前に衝撃を与えるインパクト型ヒゲ系有名人2選
割りと強めの衝撃を受けたのが、メッシだ。あの童顔に昔のヨーロッパ貴族の肖像画から出てきたような豊かなヒゲが組み合わさると、インパクトが強い。テストステロン分泌しすぎだろ。
何かのメディアで初めて見たときは、ちょっと残念だった。メッシはヒゲがない方が圧倒的に好きである。あまり貫禄がついているとは思えない。あるいはこれは日本人的な感覚なのだろうか?ヨーロッパの人たちから見たら、何の違和感もないのだろうか?ヒゲに対する印象や評価は、国や文化によって違うのかもしれない。
そして、最近もっとも衝撃を与えたのが、東京湾岸署から保釈されたときの槇原敬之だ。インパクト激甚すぎて唖然とするしかなかった。ボロボロになった歯に白髪交じりの伸び放題になったヒゲの姿は、エッジが効きすぎて致死量をはるかに超えるインパクトだった。ヒゲは白髪交じりなのが余計に不潔感を強めている。もう一瞬でお腹いっぱいになった。
またメディアに登場する機会があったら、顔周りを程よく剃って頂きたいものだ。歌も声も大好きだし、音楽の素晴らしさは変わることはない。できる限り見た目も整えて、また心に響く歌声を聞かせてほしいと切に願っている。
ヒゲを伸ばすことで必ずしもダンディズムや男らしさが上書きされるとは限らない
こうやってヒゲ系有名人を見てみると、ヒゲを伸ばしているからといって必ずしも、ダンディズムや男らしさが上書きされるとは限らないってことにすぐ気がつく。やっぱり客観的に見て、その人に似合っているかどうかが最重要だ。
自分が好きで伸ばしていても、他者から見て明らかに不釣り合いだったり汚らしく見えているようだったら、ちょっと考えたほうが良さそうである。清潔感と直結するだけに、ヒゲを伸ばすなら毎日キレイに整えておくのが必須かもしれない。
僕の場合は、自分ではわりと似合っているのでは?と思ったのだが、童顔という特徴からみても客観的には似合っていない可能性は十分ある。ちょっと再考したほうが良さそうだ。
新型コロナウィルスは社会を断絶したように見えるが、人と人のシナプスは繋がり続けている
毎日ニュースでは、新型コロナウィルスの1日の感染者数や死亡者数、これまでの総感染者数に総死亡者数などが報道されている。
今でこそだいぶ人出は戻ってきたが、一時は渋谷とか歌舞伎町の繁華街では人影が消え、足音が消え、笑い声や嬌声が消えた。我が物顔で歩いているのはたぶん、羽をテカテカ光らせたカラスぐらいなもんだろう。もはや街は何も生み出さないし、何も吐き出さない(酔っ払いもいないことだし)。
そうなると社会は断絶されて、密に繋がっていたネットワークがあちこちでスライスカットされているように見える。大小さまざまな穴が穿たれ、その穴が時間の経過とともに広がって大きくなっていく。そんなネガティブな幻想にとらわれているのは、たぶん僕だけではないかもしれない。
明らかに想像力が欠如しているように見える政治家の言動とか、それを痛烈に批判するワイドショーのコメンテーターの発言を毎日のように聞かされていると、
あぁもう日本終わっちゃうんだ
と、思わず絶望的なこの国の姿が頭をちらついてしまうのもやむを得ないだろう。
だけど、こんなニュースを目にして少し希望が湧いてきたのも事実だ。まったく単純すぎて、自分の頭の悪さを痛感するしかない。
人と人のシナプスは確実に繋がっている
ゴロゴロしながらTwitterを見ていたら、高度救命救急センターで第一種感染症指定病院である墨東病院の医療物資が不足しているため、ある起業家がマスクを段ボール箱いっぱいに詰めて届けたというのだ。もう医療崩壊寸前まで来ているから、きっと「なんとかしないと」という思いだけで行動したんだろう。
また、日本の医療を守るためのクラウドファンディング「マスク基金」が1日で1億5千万円を集め、国内史上最速だったという。
あるいはタレントやスポーツ選手がチャリティーオークションに参加して医療物資の提供に貢献しているというニュースもあった。
一度は社会のネットワークが断絶してしまったと諦めていたが、人と人のシナプスはまだ確実に繋がっているんだと思って感心した。やろうと思っても行動できないことが多いから、こういった行動を起こしただけでも最高すぎる。まったく称賛に値するじゃないですか。
強固に繋がっていたシナプスも一瞬で断ち切られることもある
だけど一方で、一瞬で断ち切られてしまうシナプスの繋がりもある。恋人同士や友人同士、または家族同士のそれだ。
僕の話をすると、以前10年ほど仲良くしていた友人がいたのだが、二人で旅行に行っているときに、些細なことがきっかけでお互いのシナプスが繋がりを断ってしまったことがあった。というより、僕が一方的にカットしてしまったのだけど。
結局別々に東京に帰り、帰った後も1~2度連絡をとっただけで一度も会うことはなかった。ちょっとした不満が僕の中でだんだん累積していき、旅行中にキャパオーバーしてしまったのだ。そのまま時間が経過してしまい、時々どうしてるんだろう?と思い出すことはあっても、連絡を取ることはもはやない。きっと向こうも同じ感じかもしれない。
繋がりが強く深いほど、一度切れてしまうともう元通りには戻せないことの方が多い。逆に言えば、繋がりが浅いほど修復するのもわりと簡単だ。今回の社会のネットワークの断絶からの再生も、広く浅いという特性を持つ社会の繋がりだからこそ生まれたのだと捉えても良いのではないだろうか。
神経伝達物質をお互いに放出しあうという強引な未来感に期待したい
そもそも脳内にあるシナプスは神経細胞にあって、神経伝達物質を放出することで他の神経細胞と繋がりあうことができるらしい。つまりお互いのシナプスが
送る→受け取る
という単純すぎる構造を正常に機能させていれば、簡単に繋がりあうことができるのだ。
それならば、「伝達物質クリーム」のようなものを体に塗り付け、その伝達物質を受容する「人工シナプス」を体に埋め込むことができれば、簡単に人と人が繋がりあちこちで友好関係が結ばれるのではないか。
もし「この人はちょっと…」という人から送られてくる伝達物質はシナプスを閉じてガードできれば、自分で取捨選択できるから安全だ。
「この人はまだどんな人かちょっと分からんなぁ」という場合は、伝達効率を悪くしてちょっとずつ伝達物質を受容できるようにシナプスを調節できるようにする。
こんな風に友情関係、愛情関係、ビジネス上のパートナー関係なんかが人工的に作られたら、今とは違ったカタチの平和的で幸せな世界ができあがるかもしれない。
まぁこれはちょっと強引な想像(いや妄想か)かもしれないけど、こんな未来感のある世界がもしやって来たらそれはそれで面白いんじゃないだろうか。