答えのない問題に直面したとき試合放棄せずに答えを見出せるようになる2つの方法
世の中には2種類の問題がある。「答えのある問題」と「答えのない問題」だ。
「答えのある問題」といえば、学校で受ける(あるいは受けさせられる)テストの類である。毎年、大学入試で「実は答えが存在しない問題でした」と泣く泣く公表する大学があるが、学校で出される問題には必ず答えがあるのが原則。
一方「答えのない問題」は、社会で生活していると無数に出てくる。が、答えのない問題も厳密にいうと2種類ある。ガチで答えのない問題と人によって、シーンによって無数の異なる答えがある問題だ。
「自分の心に映っている自分自身の姿を鏡に映し出すにはどうしたらいいのか」みたいなガチで答えのない問題はとりあえずカバンに閉まっておいて、私が取り上げたいのは「人によって、シーンによって無数の異なる答えがある問題」の方だ。
答えのない問題の例
答えのない問題の例をあげてみよう。誰でも一度は頭をかすめたことがあるはずだ。
・人は何のために生きているのか?
・自分とはいったい何者なのか?
・自分がこの世に生まれてきたのは何の意味があったのか?
・人はどうして働かないといけないのか?
などである。いくら考えても明確な答えは出てこない。同じ人でも、置かれている状況や精神状態によって出てくる答えが違う場合もある。あんまり考えすぎると脳筋が肉離れを起こしそうになってくる。「答えはこれだ!」と見つけたつもりになって寝て起きたら、なんでこんな答えを出して満足したのか絶望したくなることだって一度や二度ではない。
だから賢人の書いた本を読んでヒントをを見つけ、答えを探り当てようとする。でも書いてあることなんて人によって大きく違うから、どれを信じていいのかが分からない。どれも採用したくなり、いいトコどりしてアレンジしてみると辻褄が合わなくなったりする。最終的には頭が完全にバグって、試合放棄するしかなくなるわけだ。
答えのない問題に直面したとき試合放棄せずに答えを見出せるようになる2つの方法
それではどうしたら、途中で試合放棄せずに「答えのない問題」からある一定の答えを導き出せるようになるのか。方法は2つある。
①問題に具体性を持たせる
上で記した「答えのない問題」の例は漏れなく抽象度がかなり高い。抽象度が高ければ、人は明白な想像図を思い描くことはできないので、余計に難しく感じるのだ。それならば、自分事として具体性を大さじ3杯くらい入れて抽象性を薄めてあげればかなりとっつきやすい問題になるはずである。
例えば、「人は何のために生きているのか?」という抽象度激高な問題に具体性を持たせるとこんな感じになる。
【具体性なし】
✖「人は何のために生きているのか?」
↓↓↓
【具体性ありに変換】
〇「売れないライターとして働いている俺は、結婚もせず一人で何のために生きているのか?」
このように身近な問題として具体性を持たせることで、答えを導き出しやすくなる。
ちなみに抽象度の高い「人は何のために生きているのか?」という問題に対しては、“自分自身を知るため”、“世界を理解するため”、“子孫を次世代に引き継ぐため”という、これまた抽象度が高すぎて現実感のカケラもない、誰もが考えそうな答えしか出せなかった。
だが、問題を具体的に変換することでずっと身近な答えが出せるようになったことに気づく。
≪問題≫
「売れないライターとして働いている俺は、結婚もせず一人で何のために生きているのか?」
≪答え≫
“書くスキルを磨きながら自分の世界観が伝わる記事を作りつづけ、少しでも生きていることが楽しいと思える時間を過ごすため”
このようにグッと身近で具体的な答えが出せるようになり、頭をひねって考え続けた時間も意味のあるものになってくる。
②問題を違う視点から出してみる
問題に具体性を持たせるのはそれほど難しいことではない。が、違う視点から問題を出すのはけっこう難易度が高い。もうF難度レベルだ。
だが抽象度の高い問題だけに限らず、どんな問題でも行き詰った時に違う視点から物事を見ることは、答え探しにはかなり効き目がある。
そのとき大事なのが、次の2点だ。
・常識やルールに縛られないこと
・思い込みを捨てること
この2つの点を心がけると、問題を違う視点から見れるようになる。視力0.1から1.0くらいクリアに見える場合もよくある(あくまで個人的な感想です)。
例えば、「自分とはいったい何者なのか?」という問題を違う視点で見てみると、こんな感じになる。
✖「自分とはいったい何者なのか?」
↓↓↓
【違う視点に変換】
〇「この会社にとって(またはこの家族にとって)自分が存在する意味はどこにあるのか?」
このように変換することで、問題が問いかけている本質は変わらなくても、視点が変わることで少し答えが出しやすくなったと感じるのではないか。
ちなみに、「自分とはいったい何者なのか?」という問題に対しては、“他者に影響を与え、他者から影響を受けて変化する社会の一つの細胞として絶えず動き続けるもの”、または“世界にとっていなくてもいい存在であると同時に、なくてはならない存在”というややこしく訳のわからない禅問答みたいな答えを出してしまった。
きっといくら考えても、納得できる答えなんて出せそうもない。
だが別視点で問題をとらえなおすと、ずっとわかりやすい答えが出せるようになる。次の通りだ。
≪問題≫
「自分の周りにいる人にとって(または家族にとって)自分が存在する意味はどこにあるのか?」
≪答え≫
“周囲にいる愛する人たちや守らなければならない人たちの幸せのために働き、一緒に喜びを分かち合えるところ”
このように視点を変えるだけでより分かりやすく、具体的な答えが出せるようになる。しかも、①の問題に具体性を持たせると同じように、かなりポジティブで前向きになったのがわかる。
つまり、明確な答えのない抽象度の高い問題に具体性を持たせたり問題の視点を変えてイメージしやすくするだけで、意識がやる気や積極性へとチューニングするようになりポジティブな気持ちに色が変わったのだと思われる。
問題が具現化されるだけでなく、気分も未来志向でハイになるならもはや実践しない手はないだろう。
さて、ここまでは「答えのない問題」を自問自答していただけだったが、次はそれを質問されたらどう答えればいいのかを考えていこう。
子供に答えのない問題を突然尋ねられた時の対処法4選
あなたが学校の先生や子供を持つ親だとしたら、子供に明確な答えを持たない問題について質問される機会は少なくないだろう。僕に子供はいないけれど、姪っ子に何度か超難問を不意に突きつけられたことがあって、うまく答えられないことのほうが多かった(圧倒的に)。
「どうして人は生きなくちゃいけないの?」
「どうして子供は勉強しないといけないの?」
「どうして子供は大人の言うことを聞かないといけないの?」
など、今まで一度も考えたこともないことを質問されるような幸運に巡り合うと、ブルブル震えて冷や汗をかくことは間違いない。そんな時に、カッコいい大人だったらどう対処すべきなのか。カッコいい大人の絶対的キングとして、僕ならこうするというとっておき対処法をお伝えしよう。
対処法1~率直に自分の考えを述べる~
人の顔なのかただの歪んだ図形なのか、海なのか空なのか分からない抽象性の極みのようなボヤっとした質問をされたとしても、すぐに頭をフル回転させて簡潔に答えられたらきっと尊敬されること間違いないだろう。
だが過去に1度くらいは一定時間コミットして考えたことがないと、なかなか難しい。そこはもう運に任せるしかない。
もし運が味方についてくれたら、過去の引き出しを引っ張り出して率直に伝えよう。あまり長く詳細に説明しすぎると子供が飽きてしまうため、ある程度余白を残して伝えたほうがベターだ。
対処法2~「一緒に考えてみよう」と同じ目線に立つ~
過去にフルコミットして考えたことのある問題を、そのまま質問されることはあまりない。
「そんなこと考えたこともねええええ!」と心の中で焦りながら、表情は冷静に保ちつつ「よし、じゃあ一緒に考えてみよう」と促すのがベストだ。
対話していくうちに、だんだん答えの糸口が見つかってくることもあるかもしれない。質問と対話を繰り返すことで、明確な解答が得られなくても子供はある程度納得するものである。
また、同じ目線に立って一緒に考えてみることで精神的にゼロ距離になり、関係性はますます親密になるはずだ。
対処法3~「明日教えてあげよう」と時間的猶予を作って一夜漬けで考える~
率直に意見を述べるほど知的モーターが働かず、同じ目線に立って一緒に考えるほどの余裕もない。そんな時は、忙しいフリをして「明日教えてあげるから待っててほしい」、と自然な形でその場をやり過ごすのがベターだ。
一人になったらネットで調べ、一夜漬けで考えをまとめることに全力を尽くそう。あるいは、信頼できる人に聞いてヒントをもらうのも手だ。
いずれにしても、「その問題を答えるには一定の時間が必要だから、余裕のある時にじっくり教えてあげよう」という雰囲気を伝えたほうが良いだろう。時間的猶予を作っておけば、それなりのモノができ上るはずだ。
対処法4~聞こえないフリをして誤魔化す~
これは最終手段と考えたほうが良い。何故なら、一瞬で信用を喪失するリスクがあるからだ。
何かに集中して聞こえないフリをしてちょっとずつ距離を取ることで、「いま忙しそうだから話しかけないほうが良かったかも」と子供が考えてくれれば最大の成果が得られるはずだ。つまり、知的脆弱性を暴露されず信頼関係も損なわれない。子供に「今じゃなかった」と空気が読める敏感さがあれば、この方法は功を奏すはずである。
だけど聞こえないフリをしてるんじゃないか、ただ誤魔化しているだけじゃないのか、と察知されたらもう終了ブザーが爆音を響かせることになる。知的に脆弱であることを悟られ、今まで築いてきた信頼関係も瓦解して二人の間には大きなクレバスがみるみる口を開けていくのを、それこそ口を開けて眺めているしかない。
もちろん、こんな誤魔化し行為はおすすめしない。望むような成果を得られることはまずないと考えるべきである。たまたま今回成功しても、次回また同じ成果が生まれるとは限らない。むしろ、一度きりにしたほうが身のためである。
「答えのない問題」と真剣に向き合うことで人間性に厚みが生まれるのかもしれない
答えがあらかじめ用意されている問題を一生懸命に解いたところで、知識が蓄積されるだけだ。もちろん知識は思考の材料になるし、生活していくうえで役立つことも多い。
だが、「答えのない問題」に真剣に取り組んだ結果、得られる“大きなプレゼント”に比べたら些末なものというしかない。僕の考える大きなプレゼントとはつまり、
・問題解決能力
・論理的思考力
・マクロの視点で事象を俯瞰する能力
・社会や他者との関係性を再考し深める能力
である。問題の本質を見極めて大所高所から解決策を構築していく。社会の中に、あるいは自分の中に存在する難問はどうしたって、他者との関係が付いてまわる問題であることがほとんどだ。
したがって上記のような能力が身につくことで、人間性に厚みが生まれてくる。薄切りにスライスされたベーコン並みなのか、分厚いブロックベーコンクラスなのかは、真剣にコミットした時間やもともと持っている性質によるんだろうけど。…
僕は答えのない問題に直面したとき、時間をかけて自力で解決しようと取り組んだこともあれば、手も足も出ず早々に試合放棄したこともある。だからこそわかるのだ。たとえ最終的に解決できなくても、自力で解決策をあれこれ導き出そうとすることで「何かを得た」という感触が手の中に残るものである。
だけど、早々に試合放棄してしまうと無力感だけがいつまでも漂うのだ。面倒がらずにしっかりコミットしておけば良かったと、何度後悔したかわからない。
社会には答えのない問題にあふれている。それを避け続けて生きていくのか、直面するたびに人間力をフル稼働させて解決に導こうとするのか。その姿勢如何で、人生の充実度に差が生まれてくるのではないかと感じるのだ。